学校には、季節とともにゆっくりと変化していく樹木がたくさん植えられている。季節の良い秋には、校庭に出て自然とじっくり対話させたい。このスケッチブックと鉛筆による樹木の精密描写は、自然の力を借りながら写実的な描写力の向上を目指したものである。
題材の設定理由と目標
日本の国土の70パーセントは山林である。樹木は平地にも多く見られる。私たちは、木の中で暮らし、木の恩恵をたくさん受けている。しかし、緑とともに生活している割に、身近にある木は加工されたものが多く、普段じっくりと木を観察することは少ない。
学校には、創立時に植樹されたと思われる樹齢百年を超える木を始めとし、多くの種類の樹木がある。毎年、9月の中頃になってさわやかな秋の訪れを感じる頃、教室を飛び出して校庭へと出かける。11月の肌寒くなる時期まで、毎時間外へ出て自然と対話をするのである。
写生が始まると、生徒たちは自然が日々刻々と変化していることに気づいてくる。雨の次の日は、木がしっとりと濡れ黒ずんで見える。サルスベリの木は樹皮がめくれ、巻き付いた草花はあっという間に背を伸ばす。日差しも、できる影も、昨日と同じものは何一つないことに気づくのである。物の表面の形や色に心を奪われていた生徒は、絵づくりのために何をどう描いたらよいかに悩む。しかし、それがまた絵を描く楽しさでもあることを知る。
この授業は、校庭にあちこちに分散した生徒と、少しずつであるが、毎時間話ができる機会でもある。普段教室では他の生徒の存在を気にするシャイな生徒とも話しやすい。遠近の表し方や茂った葉の表し方など、困っていることが比較的明確にわかるのでアドバイスもしやすい。確かな描写力が身に付くことが、この題材の目標である。
題材の評価規準
関心・意欲・態度 | 発想や構想の能力 |
自然の中にある美の法則を感じ取り、自分の表現の中に取り入れたいと思っている。 | 刻々と変化する樹木とそれを取り巻く環境の変化を観察し、その樹木の表情に適した描写方法を選んで表現しようとしている。 |
創造的な表現の技能 | 鑑賞の能力 |
全体の中の部分、部分の中の全体という自然界のフラクタルな関係を感じながら、自然が作るフォルムやリズムを絵に取り入れようと工夫している。 | 自分とは違ったものの見方やとらえ方、線や形の表し方を知り、その良さや特徴を認めることができる。 |
主な学習内容と評価
学習内容(時間数) | ポイント | 評価の観点 | 評価方法 | 材料・準備物など |
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1 導入(1) ・題材の説明 ・作品例の中から、自分の表したい技法で描かれているものを選び、その理由を書く。 | ◎この題材では、徹底的な観察に裏付けられた確かな描写力を身に付けることが目的である。描きたい樹木にできるだけ近寄り、木の鼓動を感じながら表情を写し取るようにする。 *アドバイス ①参照 | ○自分の気に入ったものの見方、線や形の表し方を見つけることができる。 (鑑賞の能力) | ①説明時の姿勢・態度 | ・参考作品 ・投票用紙 |
2 集合場所での説明(1) ・自分の行動に責任をもつ ・選んだ木・場所、選んだ理由を地図に記入して集合すること [留意点] ☆できるだけ近づいて細部が観察できるような樹木を選ぶこと ☆虫さされに気を付けること ☆寒暖の差に気を付け、衣服での調整すること ☆日射病にならない場所を選ぶこと | ◎友達と一緒に行動し、集中できないと予想される場合は、一人に一本の木を選ぶようにするとよい。 ◎雨天時は裏番組の「Webアートコラボ(音楽・美術)」を、コンピュータ室で実施する。 ◎鉛筆とシャープペンシルとの描写方法の違いを作品例で示し、自分の表現に適した素材を選ばせるようにする。 *アドバイス ④参照 | ○自然の中にある美の法則を感じ取り、自分の表現の中に取り入れたいと思う。 (関心・意欲・態度) ○ 全体の中の部分、部分の中の全体という自然界のフラクタルな関係を感じながら、自然が作るフォルムやリズムを絵に取り入れようと工夫している。 (創造的な表現の技能) | ②説明時の姿勢・態度 ③場所選択プリント記入内容 | ・参考作品 ・場所、樹木記入地図 ・スケッチブック ・鉛筆 ・消しゴム ・蚊取り線香 ・マッチ、ライター ・虫除けスプレー ・ハンディ蚊取り線香入れ |
3 制作(10) ・スケッチブック(A3)に、樹木のどこまで入れるかを決める。 ・作品例で選んだ描写方法を思い浮かべ、自分の表したい樹木の表情を意識して描く。 | ◎事前調査で人気の高かった作品例をラミネートし、それを持って巡回指導することによって個々の生徒の課題に具体例に答えられるようにしている。 ◎50分の間に、なるべく全員を巡回するようにする。その際、生徒の進捗状況を把握するとともに質問したいことはないかを確かめる。 *アドバイス ②参照 *アドバイス ③参照 | ○刻々と変化する樹木とそれを取り巻く環境の変化を観察し、その樹木の表情に適した描写方法を選んで表現しようとしている。 (発想や構想の能力) | ④活動状況 | |
4 まとめ(1) ・互いの作品を鑑賞し合う。 | ◎自分の表したい技法を身に付け、描けるようになったかを確認する | ○自分とは違ったものの見方やとらえ方、線や形の表し方を知り、その良さや特徴を認めることができる。 (鑑賞の能力) | ⑤作品 ⑥鑑賞態度 | ・作品 |
題材の特徴
ポイント① 表現するとは
星野富弘さんは、首から上しか動かせない体のため、ベットに横になって妻に助けられながら、口に割りばしペンをくわえて少しずつ懸命に描く。その姿と絵を見て、感動を受けな い人はいない。絵は、技術から始まるのではなく、表現を切望する心構えから始まるという ことを感じさせてくれる。ビデオの鑑賞後に書いた感想文を、スケッチブックの表紙の裏に 貼り、これから使う度に思い出せるようにした。見た人に感動を与える作品について考えることから、最初の授業はスタートする。
ポイント① 自然観察は、描写力の基礎基本
私たち人間の美の基準は、どこにあるのだろうか。私は、その人が生まれてから今日までに接してきた自然そのもの、それが生命と美の基準を作り上げていると思う。ゆえに、美の基準は長い年月をかけて作られてきた自然そのものにあると思う。
ポイント② 校庭に出て、秋の空気に浸ろう
さわやかな風が吹く秋の季節になると、教室を飛び出して緑に囲まれた校庭に行く。生命にあふれた木々たちは、この上ない絵のモチーフとなる。気に入った一本の樹木との二ヶ月に及ぶ対話が始まる。
ポイント③ ひとり一人とじっくり対話できる機会
多いときには40人を超える教室での授業では、全体での指導が多くひとり一人に話しかける機会は少なくなる。広い校庭を渡り歩きながら、他の生徒を気にすることなく、個々の悩みにじっくりアドバイスできる絶好の機会である。
ポイント④ いつもは気づかない木との対話
「あれ、この前と随分違う!」
よく耳にする言葉である。大きな木は不動に見える。数日で変化していく樹木の様子に、驚きながらもその移り変わりを実感する瞬間である。そのようにして、自然とかかわりながら自分の表現を探し求める。
アドバイス ① 描画材について
○ 鉛筆とシャープペンシル
自分の考えを文字にする筆記具として、最もよく用いられる鉛筆とシャープペンシルは、描画材としても優れた性質をもっている。自分の表現に適した描画材を選択できるように、それぞれの特徴をおさえておきたい。鉛筆は、9H~9B位までと種類が大変豊富である。デッサンするときは、芯が太めなので長目に削りだして線の幅を変えるなど、タッチに変化をつけることができる。折れにくいので勢いのある強い調子で表すものに適している。
シャープペンシルの芯の濃さは2H~2B位で、太さは0.3~1.2ミリと細めだか、線の太さが均一なので文字が綺麗に揃って見える。細密な描写に適している。
○ 消しゴム
通常、鉛筆は描くもの、消しゴムは間違ったところを消すものという概念がある。ここでは、鉛筆は実態を描くもの、消しゴムは光を描くものというとらえ方で用いると新鮮である。
アドバイス ② 見ることから、表現することへ
○ 普段の見え方
普段私たちは、主に視聴覚の情報を手掛かりにして生活をしている。しかし、得られた情報をすべて処理しているのではなく、生きている上で最も重要だと思われる情報を優先させ、その他の多くの情報は無視するようになっているらしい。
その物の実体を見ているのではなく、その物の特徴や印象を見ているといえる。
○ 意識して見る
これまで、何度も見ている筈なのに思い出して描こうとしても思い出せない。自分の観察力のなさを卑下したくなるときである。普段私たちは、情報を素早く処理するために特徴で物を見るようになっていると先に述べた。
見ているはずなのに思い出せないのは、そのことが重要な情報として扱われていないからで、必要な情報だと意識し見ることによって、初めて見えてくるようになるのである。普段は、そんな見方で生活していないので、思い出せなくて当然である。
○ 記憶を定着させる
もう一つ、思い出すための重要な要素として記憶の定着度がある。意識して見えるようになったものを、今度はいつでも使えるように記憶しておく必要がある。
脳細胞のシナプスの連結が太くなれば、記憶も強くなると云われるが、そのためにはなるべくたくさんの感覚を動員して、繰り返し学習することが効果的だと云われている。そういう意味では、絵を描くという行為は記憶のための非常に有効な手段であるといえる。
○ 普段の見え方に戻す
意識して見ることができるようになると、次に「見えたものを、どこまで描いたらよいか」 という疑問が起こってくる。しっかりと観察できるようになると、今度は 細かいところまで見えすぎて収集がつかなくなることがある。例えば、樹皮が鱗のようにびっしりと覆っている場合など、そのまま写し取ると壁紙の模様のようになってしまう。情報が多すぎるので、普段見ている印象から遠のいてしまうからで、普段見ている状態に戻してやる必要がある。
○ 特徴を見つける「薄目見」と「ぱっと見」
私たちは普段、重要な情報を優先してその特 徴や印象で物をとらえていると述べた。これを描写に当てはめてみると、特徴のある ところを描き、その他のところは描かないということになる。生徒には、ものの特徴を見つける方法として、 「薄目見」や「ぱっと見」を勧めている。「薄目見」は、薄目を開けてぼんやりと見る方法である。そうすると、特徴的な物は見え残り、そうでない物は判別しにくくなる。
「ぱっと見」は、違うところを見ておいて短時間だけ視線を戻す方法である。これは、瞬間的に印象をとらえようとする本来の性質を利用したものである。
まだ形が見えているも、実際よりも2倍以上はっきりと描き、形がなくなったも、実際よりも随分弱く、場合によってすべて省いてしまう。
○ 共通言語に翻訳する
特徴を見つけることができたら、次にそれを だれにでもわかる言葉に翻訳する必要がある。このことを写実的描写に当てはめると、だれにでもそう見えるように描くということになる。例えば、平面での写実的描写では、透視図法や影を付けるなどの技法を用いて立体的に錯覚させる言語を用いることになる。
これまでは、それらの技法の習得に重きを置かれた学習指導がされてきたが、何のためにそれを用いるのかという目的を明確にすることが、 最も重要であると考えている。
○ 写真とイラスト・絵の違い
写真を見て絵を描く手法は、今日ではよく用いられるが、写真をそのまま模写するとどこか違和感のある絵になる。普段見えていないものもすべて描かれてしまうからである。
写真で見るよりも、イラストや絵の方が実物に近い印象を受けることがある。 それは、作者が特徴を強調したり、不必要な情報を省略したりすることによって、表したいことをより明確にしているからであろう。 似顔絵や漫画は、その顕著な例である。
絵を描くに、観察など方法で自分が描けるようになるまで物形を把握する必要があるが、実際に描くときに 強調や省略を用いて普段見ている状態に戻す必要があるということである。
○ 自然には輪郭線はない
物の形を画面に表すとき、大抵は輪郭を手掛かりにする。特に日本の漫画表現に見られるように、線描で物の特徴や動きを端的にとらえて表す手法が古くから用いられ、輪郭の強弱や微妙な変化で描き分けることに卓越した表現技術がある。それは私たち現代の日本人も受け継いでいるように思う。特に、毛筆では多彩な表現が可能である。
アドバイス④で述べたように、自然界にあるものには輪郭があるのではなく、物と物との境目があるだけである。素早く物の形をとらえたり、強調して形を表すために、輪郭に置き換えているのである。輪郭でものを表すということは、一度ものを平面的に解釈した結果と考えることができる。物を立体的に表すために、 陰影をつけたり透視図法を用いたりするが、既に輪郭で解釈したものにそれらの技法を当てはめただけでは、塗り絵のような表現になってしまう。陰影によって立体を解釈する西洋画の技法では、輪郭はあくまで面の消失線としてとらえる必要がある。
全く輪郭を線で表さない描写技法を経験させると、面で物をとらえるということが理解できるようになるのではないだろうか。輪郭線で物の形を表すことに慣れすぎてしまわないようにさせたい。
○ 光の方向は自分で決める。
屋外での写生は変化に富んでいる。太陽は1時間で15度程傾く。50分の授業の間でもその変化は十分に感じられるほどである。それに週2時間は同じ時間帯になるとは限らない。1時間は朝9時の1時間目、もう1時間は昼13時を過ぎる5時間目という場合もある。そのため、光の当たる方向を自分で仮定する必要がある。室内で静物画を描くときは、北側からの安定した光がモチーフに当たるようにするのが普通である。
屋外での写生で最も重要なのは天候で、雨や風、寒暖の差も注意しなければならない。中止の事態に備えて、雨天用の課題を用意しておく必要がある。
○ 枝が分かれるとき、幹も傾く
私は、樹木をよく観察できているかを見極めるために、枝分かれしている部分に着目する。思い込みや概念で描いている場合は、棒のようにまっすぐな幹から枝が生えているように描かれている。
人間の場合を考えてみると、左右いずれかの腕に重い物を持って立つと、体は持った反対側に傾く。体のバランスを保つためである。樹木も同じで、枝が伸びて葉が茂ると重くなるので、バランスを保つために、幹が反対方向に少し傾いて伸びる。これは葉脈でも同じで、必ず分かれるときに少し傾く。観察していると、太さとも関係があるようで、細いほど角度が急になる。 このように、地球の自然の中にあるものは、すべてが重力の影響を受け、形作られている。一 つそのことが意識できると、他のものにも当てはめることができるようになる。
アドバイス ③ 描き方について
○ どこから描くか、何を主役にするか
限られた紙面に、何をどう配置したらよいのか迷う生徒がいる。これは限られた紙面だから 起こることで、大きな紙面に思うままに描いて後で気に入った場所を切り取れたらいいのではないかと思うときがある。
実際に、私たちも絵を額に入れるとき、どうしても気に入らない部分があると切り捨てる。 しかし、そんなこともできないので、まず一番気に入ったものを決めて、それが最もよく映えると思うところに配置してみたらどうかと、助言することにしている。
○ 線の集合で面を作る
鉛筆やシャープペンシルの描画材では、一度で描ける最大の形は線である。立体を面でとらえる方法を用いる場合、面を作っていく必要がある。
一般的には線を規則的に並べて面を表現していくことになる。線と線との間隔や、長さ、方向、集まり具合などの違いによって様々な表情を作ることができる。
幾つか練習のパターンがあるが、実践でつかみ取っていくことが望ましいと思う。失敗を恐れずどんどん試して描いているうちに、「そう見える」描き方が偶然できることがある。
その偶然と出会えるまで根気よく試していくことが遠回りのようで、自分の表現を探す最も近道であり、多くの職人や芸術家はそうしていると思われる。学校のように効率的な学習を求められる場合は、結果としての答えを示す方法が用いられることが多くなりがちである。
しかし、多様な表現の可能性と違いの良さを認めていきたい教科においては、できるだけ一つの答えを示す方法ではなく、それぞれが自分の答えを見つけ出せるような手引きやガイド、 ヒントをちりばめる指導方法が適していると考えている。
○ 樹木の下部をしっかりと描く
樹木は、地上で見えている部分は半分である。 地下には、幹や枝と同じ大きさ位に広がっている根があるといわれる。普段それらを意識することは少ないが、大風が吹いて大きな樹木が倒れると、根の一部が地表に姿を現す。倒れる木の大半は、地面が緩かったり、岩が多かったりして上部の幹や枝と同じくらいの根が十分に張れなかったのである。地上に見えるものと同じ位のものが地下にある様子を想像するのも楽しい。 地表近くの幹は、その上の幹を支えている。
下部ほど重さに耐える太さや構造が必要である。 こぶやひずみ、枝分かれなど、絵になりやすいものを主題にすると、このことが見過ごされがちになる。地下の値の形をイメージしながら、 それとつながる下部を力強く描くことを助言したい。
○ 樹皮や苔、木の葉などの群れの描き方
集団や群れているように見せたいときは、その集団の端や最も特徴的な箇所のみを詳しく描き、その他の部分は固まりとして表現するようにすると、その他の部分も同じものでできていると解釈してくれる。
アドバイス ④ 虫との戦い
実際の授業で困るのが、虫である。桜や大きな木には毛虫が多い。画用紙や頭の上にぽたりと落ちて、悲鳴が聞こえることもよくある。何よりも困るのが秋の蚊である。特に女子はスカートが制服なので足をねらわれる。予防のため、 虫よけスプレーや蚊取り線香などを準備しているが、自然が相手なのである程度の覚悟はしなければならない。