遊びは発想の原点であると考えている。例えば、「なぞなぞ」は答えを見いだしていく遊びである。発想を転換したり、飛躍した考え方をしたりすることが大切で、言葉の表層的な意味やイメージにとらわれずに一般化していく訓練になると考える。
抽象化の訓練の代表に「ジグソー・パズル」が挙げられる。これは断片の組み合わせから意味のある結合を見いだす訓練になる。「クロスワード・パズル」は、ヒントから適切な言葉を見つけなければならないので、与えられている条件から目的に至る過程を見いだす訓練になる。「4コマ漫画」は、最も一般的な起承転結によってストーリーを考える訓練になる。
このように考えていくと、遊びの中には発想するために大切な要素が、いかに多く含まれているかがわかる。勉強や学習を遊びにしてしまうだけのしたたかさが必要ではないだろうか。また、遊びにしようと意識することで、奇想天外な発想が呼び起こされとも考えられる。
私たちは、遊びを通じて発想や創造の基礎訓練をしてきたのであろう。遊んでいるときは、好奇心が持続する。遊びはとにかく面白いので熱中できるし、遊びだから失敗しても致命的な事態にはならない。子どものときに遊びに熱中できなかった人は、成人しても発想が広がりにくくなるともいわれるほどである。
遊びは発想の準備段階とも考えられる。子どものときの遊びの経験は、大人になってから発想するための必要条件である。小学校の図画工作科では、これまで中学年で扱われていた「造形遊び」が、高学年にまで広げられているが、これは遊びの中で培われる大切な要素を造形教育に生かすことができると考えられたからであろう。
三宅芳雄氏は「個人知識の外化に基づく思考支援環境」の中で、「人は一足飛びでよい考えを産み出すことはなかなかできない。思い付いた考えを吟味し、問題点を見つけ、それを改善しながら、次第によい考えを形づくっていくのが普通である。」と述べている。
動画やアニメーション、小説などのストーリー性のあるものを作るときは、問題を解決する過程で必要な吟味や批判などを頻繁に行う力を養うことができる。これは、構想を練ったり発想を引き出したりする力を育てることにもつながると考えられるので、次の項でアイディアの生まれ方についてもう少し詳しく考えてみたい。
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