2 研究目的と方法
(1) ブロンズ像の保存修復について
(2) 専攻科「専攻演習Ⅰ・Ⅱ」での取組と課題
3 研究内容とその結果及び考察
(1) ブロンズ像の保存修復について
ア 屋外彫刻の日本の歴史と現状
ギリシャやローマ、イタリアでは、広場や建築などと一体化した屋外彫刻が多く見られ、その歴史は古い。日本でも信仰の対象としての石仏は現在も見られるが、屋外にブロンズ像などが設置されるようになったのは西洋の文化が導入された近代になってからである。そして、そのきっかけは野外彫刻展が開催されるようになってからと考えられる。
松尾豊氏の『野外彫刻展の歴史 -全国傾向と富山県の場合-』によると、昭和6年に東京府美術館庭で第5回朝倉塾彫塑展覧会として28点が展示されたのが最初で、1950年代は日比谷公園での野外創作彫刻展をはじめとして、高岡博「モニューマン展」、行動美術野外彫刻展(京都円山公園)、彫刻いけばな野外展(京都国立博物館)、富山博野外彫塑展、神奈川県立近代美術館で集団58野外彫刻展と各地で開催されるようになった。1960年代には、集団60野外彫刻展が第1回宇部市野外彫刻展へと発展し、公害問題や緑化運動と連動して第1回全国彫刻コンクール応募展、第1回現代日本彫刻展へと変遷し、彫刻のある街づくりの先駆けとなったようである。
屋外彫刻の修復保存を市民活動に展開した大分大学の田中修二准教授は、『屋外彫刻調査保存研究会の活動について』の中で、「日本において、不特定多数の人びとが集まる屋外の公共空間に彫刻作品を設置することは、明治時代に西洋からモニュメントの概念が移入されたときに始まり、それ以前にはほとんど例がない。その後数多く設置された屋外彫刻作品は、現在にいたるまでに3度の深刻な受難を経験した。1第二次世界大戦中の金属供出、2敗戦直後の軍国主義的と見なされた作品の撤去、3そして現在もつづいている大気汚染の影響によるダメージの進行とそれに対する人びとの無関心である。」と述べており、本学の場合もこの3に当たると考えられる。
イ ロダンの『青銅時代』について
オーギュスト・ロダン(1840-1917)が37歳のとき、サロンに出品した「青銅時代」は、そのあまりにも写実的な表現のため、生身の人間から型取りしたのではないかという疑いが掛けられた。しかしそれは、ロダンの妻がモデルの男性の写真を提示したことによって解決するのであるが、あまりにリアルなその造形力がもたらした疑惑であった。この「青銅時代」は、1880年にフランス政府が買い上げ、そのころからロダンの力量はしだいに認められるようになっていった。
江藤望は、『彫刻における時間性について1』の中で、中間型の動勢の例としてこの像を取り上げている。「《動中の動》でもなく《静中の動》でもない、その《中間型の動勢》とも呼ぶべきものがある。それは今にも動き始めようとする、静謐にして緊張感に満ちた一瞬を表現した作品で、『青銅時代』(1876)や『考える人』(1880)がその好例である。」とし、それを生み出している要素を次のように的確に分析している。
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