(c) ヘルバルトの道徳性品性の陶冶を重視した教授法
1960年代、ヘルバルト(1776-1841)は、道徳教育が知識教育などと切り離せない中心的な位置にあるとし、一体化を強く主張した。子どもの道徳性の育成を最も重要と考えるのは、思想から感情、更に行動が生じるからとしており、それとともに「私は、この際教授のない教育などというものの存在を認めないし、・・・教授しないいかなる教授も認めない。」*(2)と述べ、十分な知識を有さない教育者による教育から起こる事態を、「彼らは、教え子の気分を意のままに支配し、この絆で教え子を拘束し、青少年の心情を自分でさえ気づかないほどに、絶えず動揺させているのだ」*(3)と、危惧している。
ヘルバルトは、教育者がしっかりとした知識や理念をもち、子どもの意志が「公正と善のイデー」に向いているとき初めて効果的になるとし、「公正と善のイデーが、その厳密かつ純粋さに於いて意志の本来の対象となるということ、それに即して品性の最も深い真実の内容、人格の深い中核があらゆる他の恣意を無視して規定される」*(4)とし、教育のスタート地点として、「興味」とともに「意欲」の重要性を述べている。子どもたちは多くのことに興味を抱き、様々なことに取り組もうとするが、このとき興味が道楽や欲望に流れてしまわず一定の方向へと向かうように導く必要があると考えていた。その際、「道徳的品性の陶冶」が重要で、「個性」を構成するのが欲望であるのに対し、「品性」は人間が道徳的に成長することのみを目指しており、それを構成し得るものは「意志」であるとして「個性」と区別している。
日本でのヘルバルト派教育について、慶應義塾大学の山本正身教授は『日本におけるヘルベルト派教育学の導入と展開』*(5)の中で、我が国に初めてヘルバルト派教育学の本格的な紹介をしたハウスクネヒトは、明治21年、自宅に教育関係者を招いた講義『教育時論』で、「教授とは単にある事柄を知ることができるようにするだけでなく、このことにより精神の力を強くし特性をも養うものである」とし、教授の四つの目的として次のことを挙げた。
第一に、生徒の既知の観念と、教員の教えようとする観念を結合させること 第二に、教員が教えようとする観念を、生徒に与えること 第三に、教員が与えた新しい観念を、生徒が様々な事柄に応用させること 第四に、教員が新たに与えた観念に関連する事項について、生徒の徳性を養うこと |
特徴的なのは、教授すべきこととして「観念」という言葉を用いている点であり、教育の目的は単なる知識の伝達や技能の訓練ではないことを示唆している。当時、我が国の教育界でこの考えが歓迎されるようになったのは、最後の道徳性品性の陶冶を最終目的においている点が挙げられる。ヘルバルトの人間諸関係の審美的判断としての徳の涵養という考え方を、例えば日本の五倫五常に当てはまるように解釈し、教育勅語の趣行にしたという歴史があると山本は述べ、教育者は、子どもの興味を大切にし、教育理念に基づいて品性を大切にしながら導く役割であるとしている。
美術教育においても、教科についての十分な知識や理念のないまま、指導者が単に「楽しい」や「面白い」のみを目指してしまう授業にならないように踏まえたいところである。学生に教職を希望した動機を聞くと、約半数以上が美術をやっていて楽しかったからそれを共有したいという答えが返ってくるが、自身が楽しいと感じるに至った経緯を深く考えさせるようにしたいと思う。
また、次期学習指導要領では道徳が教科として設置される予定であるが、ヘルバルトのいう品性を大切にした教育を目指す方向で進むことを願っている。
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